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ウソみたいな本当の話 その1、ストーカー

私が中学生の時、3つ歳上の兄がストーカー被害にあった。兄は隣り駅で乗り換えをして都内の高校に通学していたのだが、最初に犯人をみたのは隣りの駅だったそうだ。それがいつの間にか、最寄り駅でみかけるようになり、「おや?」と思っているうちに、ちょっとずつ家に近づいてきたという。毎朝、曲がり角に立ち、どちらから兄が来るのか見張っていたのである。

兄が両親に打ち明けたのは犯人がだいぶ家に接近してからのことだった。両親は警察に電話をかけて相談してみたが、思ったとおり「はっきりした被害がないと警察は動けない」というようなことを言われて困ってしまった。私が「兄、ストーカー事件」を知ったのは、この電話のちょっと前である。ある朝、母が「ばれないように」と言うので、そっとカーテンの隙間から覗いたら、マンションの下にストーカーが立っていた。「激怒」風の険しい顔つきをした白人男性であった。私も何日か前に駅に向かう途中ですれ違っており、外国人だったせいもあり、見覚えがあった。

警察は頼りにならないので、家を出る時間をずらしたり、父が駅まで送ったり、そうこうしているうちに、急に彼は姿をみせなくなった。一体何が目的だったのか、何人なのか、当時の私には「かなりおっさん」にみえたが、本当は何歳だったのか、何もかもわからないままにうやむやに事件は解決した。

私が彼と再会したのは、それから3年後である。大学受験用の証明写真を撮影するために、最寄り駅近くの写真館に行った時のこと。撮影をすませ、待ち時間に店内を何気なく見回していて、ハッとした。証明写真のサイズ見本のモデルとして、彼がうつっていたのである。

前回は「本当のようなウソの話」を書いたが、今回は「ウソのような本当の話」である。意表をつかれる形でのストーカーとの再会は、恐怖でおののく、というより、腹の底から笑いがこみあげてきたので、走って家に帰り、母に報告して二人で爆笑した。さらにウソのようで本当なのが、それから14年ほどたった現在も、彼はまだ実家の近所に住んでいて、たまにみかける、ということである。見た目は当時と全く変わらない。今だったら「一体何歳なのか」くらいはきける気がする。
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今年もよろしくお願い致します。 近藤聡乃
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by mag-akino | 2013-01-03 13:08

紙芝居の時差とウソ

紙芝居のそれぞれのページの表裏に時差があると気づいたのは5歳の頃だ。通っていた幼稚園には、先生が子供達に読み聞かせるための大きい紙芝居があった。ある日、自由時間に一人でそれをいじっていた時のことである。

紙芝居のページを引き抜いて後ろに差し入れる、という動作には日頃から憧れがあり、私は引き抜いて差し入れる動作を黙々と繰り返していた。そして、最後の「めでたしめでたし」の絵のページを引き抜いた時に、その裏に物語のタイトルが書いてあることに「あれ?」と思ったのである。文章で書くとややこしくなるのだが、「観客が観ている絵」に対する「お話」は、その前のページの裏側に書かれている。つまり裏側には絵より1ページ先の文章が書かれているのである。大人になってからはこれを「紙芝居の時差」と呼んでいるのだが、当時は「ずれている」と感じて、とても不思議な気持ちになった。

私は、何度も表と裏をペラペラと見返して、「ずれている」ことを確認した。確認したところで何か「納得がいかない」という気がした私は、ほぼ無意識に、厚手の紙でできたページの角のところを爪で二枚に分けて、そのままペリペリと表と裏を裂いてみた。表裏を「過去」と「未来」とするならば、その紙の隙間に「現在」があるような気がしたのかもしれないが、右手に絵の側、左手に文字の側をそれぞれ持ってみても、相変わらず「納得がいかない」ままであり、そしてようやく、紙芝居を裂いてしまったことに気がついた。

さて、話はここからである。
A: ハッとした私は、慌てて2枚を他のページに挟んで逃げた。この裂けたページがその後、誰かに発見されたのか、されなかったのは知らない。
B: 両手に裂いたページを持って呆然としているところを、あっという間に他の園児にみつかって、先生に叱られて泣いた。

このどちらであったのかが私にはわからないのである。わからない、というより実際にはどちらも「実際に起こったこと」としてかなり具体的に覚えている。つまり、どちらも本当の経験として体感的に記憶しているのだが、実際にはそんなはずはないので、たぶんどちらかが思い違いではあると思うのだが、やっぱりどちらも身に覚えがあるので不思議である。右手と左手で「未来」と「過去」を引き裂いた拍子に、自分も二つに裂けて、それぞれのタイムラインを生きているのではないか、と想像してみたりもする。

さて。
ここに載せている文章はいつも、子供の頃の思い出や、その時々のことなどを書いているので、今回もいつものように書いてみたが、実は今回の文章は創作であって実話ではない。ウソであることをあまり気にしないようにして書いてみたのだが、書いてみるとそんなこともあったような気がしてきて不思議である、
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by mag-akino | 2012-12-18 11:59

今日はなんだか変だ

出張中の友人に、郵便受けの管理と植物のお世話を頼まれた。友人のアパートのある建物は、多くの家族が住む大きな建物で、入り口に鍵つきのドア、入ったところに郵便受け、階段をあがると友人の部屋のドア、という造りになっていた。「入り口のドアはいつも鍵が開いている」とのことで、預かったのは郵便受けの小さな鍵と、部屋のドアの二つだった。

たしか二回目の水やりに行った時のことである。いつもは開いているはずの入り口のドアが閉まっていた。もう外が暗い時刻だったので「夜は鍵を閉めることもあるのかもしれない」と思ったが、「せっかく来たのだから水をやって帰りたい」とも思った。そこで適当な部屋のブザーを鳴らして、「友人の家に来たのだがドアが開かない」と言ってみたところ、ドアの鍵を開けてもらえた。

不用心、と思いつつ建物の中に入り、郵便受けを開けようと鍵を差し込んだが、開かなかった。何度もガチャガチャやっていたら、ちょうど帰宅した一階の部屋の住人らしきインド人(と思われる)男性が手伝ってくれた。二人でしばらくガチャガチャやってみたがどうしても開かない。もうあきらめよう、と鍵穴から鍵を引き抜いた男性が、その郵便受けをまじまじとみて、「これは僕の部屋の郵便受けじゃないか」と言ってニヤリと笑った。

この一言で完全に訳がわからなくなった。前回来た時はたしかにこの右下のポストを開けたのである。ということは前回取り出して友人宅に置いてきた郵便物はこのインド人男性のものだったのだろうか。だったら謝らなくてはならない。それにしてもこの人もこの人でこんなに長い間ガチャガチャやって、自分の郵便受けと気づかなかったのだろうか。怪しい。今日はなんだか変である。混乱しつつ友人の部屋番号のポストに鍵を入れてみたがそちらも開かない。階段を上り、部屋のドアに鍵を入れたらそれも開かない。

ここにきてようやく「建物自体が違うのでは」と気がついた。階段を降り、外に出たところ、お隣りにほとんど同じ構造の建物があり、それが友人の家だった。

帰って来た友人にこのことを話したら「二回目に来る人は大抵間違える」とのことであった。よくある間違いだったようだが、それにしても鍵が三つ開かなかった程度では、根本的な間違いがあることには気づかずに、「今日はなんだか変だ」程度の出来事なのである。この件に関しては、インド人の乱入によって余計に訳がわからなくなり、さらに最後の「ニヤリ」で頭に血が上ったということもあるが、それをふまえてもいい加減である。

「今日は低気圧だから」
「昨日は夜寝るのが遅かったから」
「珍しいものを食べたから」

これらが普段、私が「今日はなんだか変だ」と思った際の、自分への説明である。天気や血圧や食品のせいにしていつも折り合いをつけてきたが、全て根本的な間違いがあったのかもしれない。だいたい、鍵が一つ開かなかった時点では「今日はなんだか変だ」とすら思わなかったのである。今朝は目玉焼きを作ろうとしたら、双子の卵で、朝から有頂天になった。かなり大きな間違いがあっても「今日はなんだか変だ、それは卵が双子だったから」で済ましてしまいそうだ。
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by mag-akino | 2012-11-26 21:12

チェルシーヨーグルトスカッチと幼虫の腹

子供の頃に、祖母がよく「チェルシー」という飴をくれた。チェルシーは今でも販売されている、黒地に花柄のデザインの薄い紙箱に詰められた、あのチェルシーである。バタースカッチは味が濃くて苦手だったのだが、ヨーグルトスカッチは大好きだったので、緑の柄のパッケージが祖母のハンドバッグから出て来るとうれしかった。私が、「透明感がある緑がかった白」が好きなのは、このチェルシーヨーグルトスカッチに由来していると思う。

実際のチェルシーヨーグルトスカッチは、透明感はあるが緑がかってはいない。しばらく食べていないのではっきり思い出せないが、白い、というほど白くもない飴であった気もする。子供の分類でバタースカッチは茶色、ヨーグルトスカッチは白、ということだったのだと思う。そしてそのまま、パッケージの緑と、透明感のある飴のイメージが重なって、緑がかった白いものをみると、チェルシーヨーグルト味を思い浮かべるようになった。

緑がかった白いもの、といってもう一つ思い出すのが、カブトムシの幼虫の腹である。あれもよくよく考えると緑がかってはいないのだが、なぜか緑色がかった印象を持っている。私の理想の「緑がかった透明感のある白」そのものなのが、「羽化の途中の蝉」であるから、カブトムシの幼虫に対して緑色がかった印象を持っているのは、蝉からの連想かもしれない。ずっと昔、机の下にカブトムシの幼虫がいる絵を描いた時は、迷わず緑がかった白で塗った。

そう言う訳で、カブトムシの幼虫を見ても、羽化途中の蝉を見ても、反射的にチェルシーヨーグルト味を思い浮かべているので、実は「おいしそう」という印象を持っている。実際に口にいれてしまったことはないし、これからも舐めたりはしないが、ずっと「おいしそう」と感じ続けると思う。また、サーモンピンク、という色に対しても「おいしそう」と感じているのだが、こちらは理由がわからない。

絵を描く時もなんとなく「口にいれた時にいい感じかどうか」を基準に描いている気がする。口にいれた時にいい感じ、というのは、瑞々しいとか、少しやわらかいとか、うっすら甘い、という感じなのだが、視覚をどうやってそれらの感覚に置き換えているのかはわからない。これも細かく突き止めていくと、チェルシーヨーグルトスカッチのような子供の頃の色と味(食感)に関する記憶が何かあるのだと思う。




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by mag-akino | 2012-11-03 09:42

何を考えているのかわからないTさん

ずいぶん以前の知り合いにTさんという人がいた。あまり親しくなかったのだが、私はこの人がなんだか気になっていた。気になっていたのは、「こわい」と思っていたからである。Tさんが何を考えているのかサッパリわからなかったからだ。

人と会話をすると、その人が発言していることとは別に、その人の本心というのが表情や言葉遣いからなんとなく透けてみえるものである。それで、本当はそう思っているのに、そう言わないなんていい人だなとか悪い人だなとか感じつつ、相手を知っていくのが通常だと思う。しかし、Tさんの場合、表情からは何を考えているのかが全く伺えなかった。それでも、なんとなくこうかな、と会話を続けると、全然違う反応をしたり、全くその通りのことを言ったりと、その時々なので、いつまでたってもTさんの人柄がつかめなかった。それで「この人こわい」と思うようになったのである。

そんなTさんが、突然こわくなくなった。ある日、いつものようにTさんがサッパリわからなかったので、仲の良かったMさんに「Tさんが何を考えているのかサッパリわからない」ともらした時のこと、Mさんは間髪を入れず「Tさんは何にも考えてないよ」と答えたのである。

そう言われてみると、何を考えているのかわからない無表情はただぼんやりしているだけにもみえるし、予測不可能な言動の数々もその場その場で適当に対処しているのだとすると納得がいく。私自身、「何を考えているかわからない」と言われる時は大抵何も考えていないから、Mさんの意見は当たっている気がした。要するに、私はTさんを畏れていたのだが、MさんはTさんをアホだと思っていた、ということである。それ以来、Tさんがこわくなくなった。

一応、「何も考えていない」ということで腑に落ちたのだが、Tさんとはそれ以降も仲良くはならなかった。今考えてみると、私は特に理由もなく言葉にするほどでもなくTさんが嫌いだったのだと思う。そして、たぶんTさんも同じように私が嫌いで、お互いにいい加減に会話していただけではないか。気が合わないもの同士、「この人何考えているかわからなくて不愉快」と感じ、「この人アホかも」で片付けていたのである。

Tさんが本当に何も考えていなかったのか、私のことを嫌いだったのか、私はアホなのかそうでないのかはわからないが、わからない、という状態はこわいことである、という話である。
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by mag-akino | 2012-10-26 08:42

17年間使っているエプロン

ここのところエプロンをつけて制作している。アニメーション、ドローイング、マンガはたいして汚れないのだが、最近は知らないうちに何かと汚れる油絵の具を使っているのでエプロンが必要になったのだ。それで約2年半ぶりに作業用エプロンを引っ張りだしたのが、私はこれを17年間使っている。

このエプロンを使いはじめたのは高校1年の春、お茶の水美術学院で木炭デッサンを習いはじめた時だった。お茶の水美術学院(通称オチャビ)は美大受験のための予備校なので、高校1年から通うのは早すぎるのだが、春期講習で入ってみた初心者クラスは、受験対策ではなく「本格的な図工」という感じでおもしろかったのでそのまま通うことにしたのだ。木炭デッサンも何かと汚れるので、水色地に白の水玉模様のエプロンをつけることにした。

思えば捨て時はいくつかあった。最大の捨て時は、木炭デッサンの消しゴム用の食パンをポケットに入れたままオチャビに置いて帰ったらネズミに齧られて大穴があいた時であったと思う。そこで捨てればよかったのだが、なぜか、似たような布(水色地に白のハート模様)をみつけてミシンで丁寧につぎをあててしまった。それからいろいろな画材で少しずつ汚れて、洗濯をくりかえし、水玉模様がわからないくらい色あせてしまったが、今でもニューヨークで傍らにある。特に気に入っている訳ではない。ネズミ穴のインパクトを超える被害がないので、「捨てよう」と思わなかっただけである。

そして、このエプロンを見ると思い出すのが、アーティストの鴻池朋子さんである。大学を卒業したばかりの頃、私は紙をパネルに水張りして絵を描いていたのだが、ある日、ミヅマアートギャラリーの三潴さんが「支持体を変えた方がいい。ジェッソを使って下地を作る方法を鴻池に習ってこい」と仰った。そしてそのまますんなり話が通って、「口で説明するより、やってみた方が早い。一日アシスタントとして来て下さい」ということになった。鴻池朋子さんのことは美術手帖などで知っていたし、そもそも鴻池さんがミヅマアートギャラリー所属だったために、「このギャラリーはアニメーションも扱ってくれるのか」と思い、大学3年の終わりに「電車かもしれない」というアニメーションのビデオテープとポートフォリオを持って、ギャラリーを尋ねていったのである。大体、作家さんが技法を教えてくださる、というだけでも大変なことである。「これは失礼があってはならない」と、山寺に修行に入る子坊主の様に緊張し、使い慣れたエプロンを携えてスタジオにお邪魔した。(なんとなく、夜中にコッソリ和尚さんの水飴をなめる一休さんを思い浮かべていた。)

はじめてお会いする鴻池さんは、とてもきれいでキサクな方だった。お茶を飲みつつ作品をみたりみせたりした後、「では、下地にやすりをかけてみましょう」ということになった。エプロンを(虎の屏風の前でたすきがけする一休さんを思い浮かべつつ)つけたところ、鴻池さんがジッとエプロンをみつめていたので、「このエプロンは15の時から〜、ネズミ、穴、つぎ」などと説明した。

鴻池さんは、「近藤はこのエプロンが大好きでものすごく大事にしている」と誤解されたようで、「あなたの弱点はこのエプロンに違いない。何か悪いことをしたらこのエプロンを取り上げて懲らしめてやる。そしたらあなた、泣くでしょう」的なことを仰った。取られたところで痛くも痒くもないな、と思ったのだが、なんとなくエヘヘと笑っておいた。一休さんなら何かトンチの利いたことを言うところである。

しかし、この鴻池さんの言葉のせいで、捨てにくくなったのは事実である。特に気に入ってはいない、ただ捨てる機会がないから捨てないだけだったのに、なんだか捨てにくくもなった。同じくなんだか新調できずに困っているのがヤカンである。私は「赤いヤカンを使う」ことに憧れがあり、ニューヨークで一人暮らしを始めた時、「ついに赤いヤカンを買う時が来たか!」とドキドキしたら、ベルリンに移住した作家さんのヤカンが私のところにまわりまわってきて、うっかり貰ってしまった。ヤカンというのは一つで足りるし、そうとう乱暴に扱わないと破壊できないので、もしかしてこのヤカンで一生終わるかもしれないと思ってゾッとすることがある。

エプロンとヤカンで懲りたので、物は情がわかないうちにサッと捨てることにしている。旅先でついもらってしまったチラシとか、飛行機の半券とか、家に持ち込んだら思い出がしみ込んでしまうので、空港のゴミ箱に素早く捨てるのである。これは人でも同じである。「こいつと関わるとろくなことはない」と思ったら、思った瞬間に門前払いしないと、結局「まあ、いいところだって探せばあるし」とやさしい気分になってしまって、そうなったら縁を切るのは至難の業である。

このエプロンに関しては、捨て時は全て逃してしまったし、たいして情はわいてないのに「捨てたくない」と思っている。たぶん、「どんどんつぎをあてていったら、いつの間にかオリジナルの布が消滅した」という方法でしか、私の元からなくなることはないと思う。腐れ縁である。
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by mag-akino | 2012-10-17 12:00

寝つけない夜の暇つぶし

寝つきが良い私にもごくたまに寝つけないことがある。そんな時にやる暇つぶしに、「目を閉じて、頭と足の位置を逆に寝ていると思い込む」というのがある。要は、いつも寝ている布団を上下逆にしてそこに寝ている自分をイメージする、ということなのだが、意外と難しくて意外と簡単。集中すると30秒ぐらいでできる。

ニューヨークの今のアパートに住んで約3年。28年間住んだ日本の実家では、記憶にある限りほぼ同じ位置に寝ていた。そのせいか、「ニューヨークの現在のベッドで上下逆」をイメージするより、「実家で上下逆」をイメージする方が簡単であった。さらに、「ニューヨークのベッドの中で、実家の布団に寝ている自分」も試してみると、「ニューヨークで上下逆」よりむしろ簡単である。実家に寝ていた年月の方が長く、部屋の雰囲気や天井の感じをより理解しているからだと思うが、その場で上下逆になるよりも、距離も時間も越えた布団の中にもぐり込む方が簡単、というのがなんだか不思議である。やってみたことはないが、「ニューヨークのベッドの中で、実家の布団に上下逆に寝ている自分」というのも案外簡単なのかもしれない。

ところで、この暇つぶしを思いついたのは、大学1年の時であった。よい暇つぶしと思ったので、次の日に友達に自慢したところ、彼女は「上下逆どころかグルグル回転もできる」と言っていた。

眠れない夜に彼女のことを思い出して、「上下逆」の後に「そのままグルグル回る」というのも試してみるのだが私にはどうしてもできない。そもそも寝つきがよいので、「上下逆」をやる機会もあまりないのだ。たぶん彼女は日頃から寝つきが悪く、日常的に逆になったりグルグル回るイメージをする機会があったのではないかと思う。そういえば、グルグルの話をきいた時の大学の学食の感じや、彼女の様子を頭では思い出せるのだが、「体ごとその場にいるイメージをする」のはやはりできない。普段から寝ているベッドの中で上下逆になるのが私の体の限界である。イメージに体をついていかせるのは難しい。

体ごとは無理かもしれないけどイメージだけテレポーテーションしたり(ニューヨークにいながら、実家の布団にもぐり込む)、タイムトリップをする(子供の頃の布団にもぐり込む)のは意外と簡単なのかもしれない、などと上下逆になったついでに考えてみるが、どうしてもすぐ眠くなってしまう。
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by mag-akino | 2012-10-15 07:53

呪いの電話

携帯電話を持ち慣れてしまうと、公衆電話を探す必要がなくなるので、どのあたりに公衆電話があるか咄嗟に思い出せない。たしかニューヨークの駅には公衆電話があった気がするが、実際に使いこなせるか不安である。ニューヨークで公衆電話を使ったのは2回くらいしかないのだ。

私が子供の頃は、誰も携帯電話なんて持っていなかったので、近所のどこに公衆電話があるか把握していた。子供だった私が、ほとんど公衆電話をかける機会もなかったのに場所を把握していたのは、子供の私にとって、電話は特別なものだったからだと思う。

携帯電話が普及し始めてから、公衆電話はどんどん減って、実家近くの電話もだいぶ撤去されてしまった。もう電話があった場所はほとんど忘れてしまったが、今でも一つだけ印象深く覚えているのは、家と駅と間の高架下にあった緑の公衆電話である。子供の頃、この電話で、泣きながらで話している女性を目撃したのだ。大人の女性がシクシク泣きながら電話で話している姿、というのは子供の私には衝撃的で、それ以来この電話の前を通る時、誰か話している人がいたら、なんとなく耳をすませるようになった。

その後、この電話で、誰かとケンカして大声で怒鳴っている男性も目撃した。顔みしりの近所の女性が声を殺して誰かと揉めているのも聞いた。駅に近いせいか利用者も多かったが、なぜか不穏な会話を感じることが多かったので、心の中でいつの間にか「呪いの電話」と呼ぶようになっていた。そして、高校生の頃だったと思うが、なんだか「我慢も限界」という気分になって、私自身もその電話で怒りと不満を鬱々と伝えたことがある。「ついに私まで電話の餌食に…」と悔しい気持ちで受話器をとったのだが、どうしても手をとめられなかった。

「呪いの電話」と簡単に呼んではいたが、今考えると、電話というよりあの付近一帯が良くないのだと思う。高架下で薄暗く、騒がしく、なんだかいつもジメジメしている。風水やパワースポットなどは全然知らないが、あのあたりは、「良くない」と思う。長年同じところに住んでいる人なら知っている、なぜか頻繁にお店が入れ替わる場所、というのがあるが、ああいう感じである。なぜかはよくわからないが、何かが確実に「良くない」というのを近所の皆が知っているのになんとなく黙っているのである。

あの付近は「悪い」というより、「嫌な気持ちを増幅させる土地柄である」、というのが20年ほど耳をそばだてた観察者としての私見である。あの付近を歩いているうちに、嫌な気持ちがムラムラと高まってきて、あの電話を目にした途端、「今こそ伝えなければ!」と突発的に電話してしまうのだ。

ただ、私の怒りの電話の件は、土地に呪われたというより、長年に渡って人の会話を盗み聞きした罰のような気もする。この公衆電話も、しばらく前に撤去されてしまいもうない。
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by mag-akino | 2012-10-03 12:18

不思議な彼女

ある冬の日に、彼女が駅のホームで電車を待っていた時のこと。突然、中年の女性が近寄ってきて、彼女にこう尋ねたそうだ。

「あなた、向こうのホームで電車を待ってる人のうち、何人が今年中に死ぬかわかる?」

彼女がうろたえて黙っていると、中年の女性は「そう。わからないの。あなたはまだそんなものなのね」とつぶやくと、「三人よ」と言ったそうだ。そして、あっけにとられている彼女に「じゃ!」と言い放つと、やってきた電車に飛び乗ってあっという間に行ってしまったそうである。

この「彼女」というのは、去年の夏に書いた、「本当かはわからないけどウソではない話」をする、高校時代の知り合いである。読んでいただくとわかるのだが、この「彼女」自身も不思議な人で、奇妙な体験をたくさんしているようだった。

この話を、たまに友達に話してみると、「じゃ!」のところで100%の人が笑う。高校時代に彼女からはじめてこの話を聞いた時、私も「じゃ!」のところで笑った。

私が通っていた高校はプロテスタント系の学校で、毎朝礼拝があった。賛美歌のあと、日替わりで誰かが説教をするのだが、ごくたまに、彼女が説教というよりは例の「本当かはわからないけどウソではない話」をすることがあった。全校生徒が集中して話を聞いている緊張感で講堂がはりつめていた。不思議な話をする人、というのは結構いるのだが、それをおもしろく語れる人というのはあまりいないのだな、と「じゃ!」で笑いをとるたびに感じる。私が真似して語っても100%おもしろいのである。本人から直接聞いたらどんなにおかしいか想像してほしい。

ところでこの彼女、こういう不思議な話を語り、皆がひとしきり盛り上がった後に、「私は子供を産めない体質だ」ということをポツリと付け加えることがよくあった。不妊治療もがんばってみたがどうしてもダメで、とうとうあきらめたそうだ。どうも彼女は「自分が不思議な体験をすること」と「子供が産めないこと」を関連づけて考えていたようである。「子供が産めない」と言われても、高校時代の私たちはポカンとしているだけだった。

たまに、彼女はどうしているのかなと思いだすのだが、もう縁は切れてしまって全然わからない。勘の良い彼女のことだから、何か具体的に「不妊」と「不思議」の関連性を知っていたのかもしれない。それに、「あなたはまだそんなものなのね」と中年女性が言ったのはもうずっと前のことである。今ごろはもしかしたら、何人死ぬのかを小咄風に語れるようになっているのかもしれない。
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by mag-akino | 2012-09-26 12:52

ゴミ屋敷で習字する

先日、「子供は集中力がある」と書いたが、私がそう考える根拠となっている思い出その2。

私が習字教室に通いはじめたのは、小学校にあがる前、たしか幼稚園の年長組の時であった。母に「お習字やってみる?」と聞かれ、なんとなく「うん」と答えた記憶はあるが、実際には全く意味がわかっていなかった。ある日、幼稚園が終わると自転車の後ろに乗せられ、近所のマンションの一室に連れて行かれ、今日はためしにお習字をしてみましょう、ということになった。

教室は幼稚園の近くにある、ごく普通のマンションの一室で、そこに暮らすおばあさんが先生だった。30枚ほどの半紙に「今月の言葉」みたいなものを先生の真似をして書いたり、添削してもらったりした。開始の時間は決まっておらず、来た人から書き始め、先生や他の子供と雑談しながらのんびりやる、という楽な形式で、帰りがけにお菓子をくれる、というオマケもあった。初日の終わり、迎えに来た母に「どうする?通ってみる?」と聞かれたので、「通う」と答えたのをはっきり覚えている。筆に墨をつけて字を書く、というのがはじめてでおもしろかったのもあるが、当時流行っていたビックリマンチョコがもらえてうれしかったのが主な理由であったと思う。

さて、それから小学4年まで、週に一度おばあさんの家に通った。問題は、このおばあさんの家がゴミ屋敷であったということだ。1985年にはまだゴミ屋敷という言葉はなかったと思うが、思いだせば思い出すほどたしかにあそこはゴミ屋敷であった。玄関から和室までのルートはギリギリ確保されていたが、教室として使用する和室以外のスペースは物で埋め尽くされ、足を踏み入れることができなくなっていた。恐らく先生本人も立ち入れなくなっていたのだろう。リビングにはソファがあったのよ…とコッソリと教えてくれたり(物に埋まっていて見えない)、その向こうにセントポーリアの入ったビニールハウスがあったのだけど、もう行けないわ…などと寂しそうにつぶやいたりしていた。たしかにビニールハウスらしきものが遥か遠くゴミの向こうに見えたが、その中にはセントポーリアの鉢がそのまま放置されているようだった。

和室は和室でもうかなり限界で抜き差しならなかった。ゴミの隙間で習字をするのも大変な集中力だが、先生は習字をする私の傍らでテレビを観ていて、見所がくると「聡乃ちゃんもちょっと観なさい」と邪魔をしてきたりもしたので、なかなか30枚書き終わらなかった。

「ゴミ屋敷で5年間習字をしていた」ということが、よく考えると異常事態だと気づいたのは大学生になってからだった。「子供をゴミ屋敷に通わせる」というのもよく考えると異常事態だと思ったので、母にたしかめたら、あの初日の「どうする?通ってみる?」と聞いた時、内心で「『通わない』って言って!」と思っていたようである。その日はじめて教室のブザーを押し、先生がドアを開けた瞬間、ゴミの山が見えてハッとしたそうだ。私が先生の前で「通う」と宣言してしまった手前、断れなくなったらしい。

教室に通った約5年間、1度もトイレを借りたことがないため、トイレがどうなっていたのか、さらに風呂場がどこにあったのかは知らない。今、もう一度あそこに行くことができたら、物を踏み越えてビニールハウスのセントポーリアを確認したり、「絶対に来ちゃダメ」と言われた台所に先生の目を盗んで侵入してみたい。おとなしく和室で習字をし続けられたのは、集中力があったからだと思う。というか、ゴミ屋敷であること自体もたいして気にしていなかったので、これも前回書いた通り、やっぱり「子供は気持ち悪さに鈍感」でもあると思う。多少バカだったのかもしれない。

そんないい加減な教室だったから、習字は全然うまくならなかった。先生は私しか生徒がいない時を見計らって、「私が死んだら聡乃ちゃんに、死に装束にお経を書かせてあげるからね」と言ったりした。私はこの口約束を誇らしく感じていたが、小学校4年生で教室をやめて以来一度もお会いしていない。先生は今もあのゴミ屋敷で習字を、とたまに考え、いやまさか、と思ったりしている。
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by mag-akino | 2012-09-19 10:58


アーティスト近藤聡乃ニューヨーク滞在制作記


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近藤聡乃 / KONDOH Akino

2012年5月までの文章が本になりました。

不思議というには地味な話』(ナナロク社)

57編、すべてに描き下ろし挿画つき。26ぺージの描き下ろし漫画「もともこもみもふたも」も収録。



2000年マンガ「小林加代子」で第2回アックス新人賞奨励賞(青林工藝舎)を受賞し、2002年アニメーション「電車かもしれない」で知久寿焼(音楽グループ、元たま)の曲に合わせてリズミカルに踊る少女の作品で NHKデジタルスタジアム、アニメーション部門年間グランプリを獲得。シャープペンを使って繊細なタッチで描くドローイングに加え、最近 では油彩にも着手している。2008年、2冊目のマンガ単行本「いつものはなし」(青林 工藝舎)を出版。

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