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クリスティーナを探せ

ニューヨークに住みはじめた時、まずは観ておこうとMOMAへ行き、エスカレーターで5階へあがったところで、アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」を見つけました。

展示室にあったのではなく、エスカレーターの脇の通り道に掛かっており、「こんな道端にクリスティーナを掛けるなんて…(MOMAってすごいな)」と思いました。「クリスティーナの世界」は有名な絵なので、「あの絵が目の前にある」という感動もあったのですが、本物を観れば観るほど「…これは何だ?」と気になってくる、不思議な魅力がありました。

そんな訳でクリスティーナを観るのがMOMAヘ行く楽しみの一つになりました。6階の企画展を観る前に必ず5階のクリスティーナに寄り、帰りがけにまたクリスティーナを観ては「やっぱりクリスティーナが一番だな」と確認するのを繰り返していました。

ある日、エスカレーターを昇ってクリスティーナの壁をみたら、知らない絵が掛かっていました。Morris Hirshfieldという独学の作家の「Girl in a Mirror」という作品だったのですが、これもまた観れば観るほど「…何だこれ?」と目が離せなくなる、ものすごいインパクトのある絵でした。(ああいうふうに女性を描く人を他に知らない。)クリスティーナが観られないのは残念でしたが、これはこれでクリスティーナの壁に相応しい作品に思えました。

クリスティーナに据え置きだと思っていたその壁は、それ以来たまに掛け変わるようになりました。(ちなみに、いつも小ぶりの作品が2、3点展示され、クリスティーナの隣にはベン・シャーンが掛かっていた。)毎回「何だこの絵は…」というものが登場するので、ますます目が離せなくなりました。最近は、George Groszの「The Poet Max Herrmann-Neisse」とMax Beckmannの「Self-Portrait with a Cigarette」が掛かっており、調べていただくとわかると思うのですが、これもまた「なんかすごいな…」という絶妙な作品です。それにしてもしばらくクリスティーナを観ていないので「クリスティーナを倉庫にしまいこむなんて…(MOMAは余裕だな)」と、寂しくなってきました。

先日MOMAに行ったら、急にルソーの「Sleeping Gypsy」が観たくなりました。「Sleeping Gypsy」がある5階の展示室は、四方に「超有名」な作品が掛かっており、「Sleeping Gypsy」を観ていると背後と左右からものすごい威圧感で圧迫されて、長時間居座れない仕組みになっています。ちょっとそこに居ただけですっかり疲れてしまい、いつもは乗らないエレベーターで降りようと左手奥に入ったら、そこにクリスティーナを発見しました。

「いつからこんなうらぶれたところに…」と絶句しましたが、また一箇所、MOMAの中にクリスティーナの壁を発見しました。今度からあそこも欠かさずチェックしなくてはなりません。MOMAの「何だこれ?」という絵はあの二カ所に集まってきます。
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by mag-akino | 2012-01-30 10:17

応用の仕方を知りたい

しばらく前のことですが、絵がとてもうまいミュージシャンの方が「絵が描ける人は音楽も作れるはずだ」と仰っているのを聞きました。君にもたぶん作れるよ、と続いたのですが、私は自分に音楽が作れるとは全く思えなかったので、黙り込んでしまいました。私の納得いかない、という顔を見て、「つまりね」と例え話まで出して「どうして絵が描ける人は音楽も作れるのか」を丁寧に説明してくださったのですが、その例え話も隅から隅までさっぱりわかりませんでした。(なぜそれが、この説明の例えになるのか、そこのところの関連性さえわからなかった。)

私は普段、「これはいい」とか「それをやってはダメ」とか、自分なりの基準で絵を描いています。こう言うとまるで、しっかりと文章になったマニュアルでもありそうですが、そうではなくて、自分としては確かだけどいざ言葉にしようとするとなかなかそうもいかない、というようなものです。つまり漠然としているので、お腹がすいたとか、頭が痛いとか、面倒臭い、とかちょっとしたことで判断が狂いがちです。

このミュージシャンの方の音楽と絵には共通の雰囲気があり、「音楽と絵の二つ別々の基準がある」というより、「一つの共通の基準」に沿って作られているように感じます。私の基準は絵にしか使えない基準ですが、この方の「音楽を作る基準」は「絵にも応用がきく基準」なのかもしれません。でもたぶん、その基準も、他人に説明しても何がなんだかさっぱりわからないくらい言葉になりにくい、でもこの方にとっては確実なものなのだろうと思います。絵と音楽だけではなくて、「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルのように、「文学に応用できる数学の基準」というのもあるのかもしれません。

音楽、数学、文学のどれも全く手の届かないところにあり、憧れることしかできないように思えますが、「応用がきく基準を持っている」のではなく、「基準を応用する方法を知っている」と考えるとちょっとは可能性がみえてきます。1人でやるとできなかったり、できるようになるまで時間がかかったりすることも、できる人がちょっとコツを教えてくれると、すんなりできるようになることがあります。誰かが私に「絵の基準を他に応用するコツ」を教えてくれたら、もしかしたらどうにかなるのかもしれません。ただ、「人に大人しくものを教わる素直さ」と「人がものを教えてあげたくなるような人柄」の両方に、自信がありません。
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by mag-akino | 2012-01-27 07:46

風船を放したこと

今思い出せることの中で、具体的に場所と時期がわかっている一番古い記憶は「兄の幼稚園の運動会を見に行った時のこと」です。兄は3つ年上なので、2歳の時の記憶です。

その運動会の最後に、幼稚園の庭から子供が全員で(その場にいた園児以外の子も)風船を飛ばしました。今は環境に悪いということでやらなくなったようですが、当時は「子供が一斉に風船を空に飛ばす」というのは一般的なイベントだったと思います。

親に抱えられて園庭の真ん中に行き、風船を渡されて喜んでいたら、「今日は放すのよ」と言われました。見上げると、空に色とりどりの風船が飛んでいました。このイベントは私が園児になった時も継続されており、その時は風船に手紙と花の種(たしかヒマワリ)をつけて飛ばしました。あの時、兄の風船には手紙と種がついていたのかもしれません。

この時のことを思い返すと、空に飛んでいるたくさんの風船が頭に浮かびますが、実際にこれが強く記憶に残ることになったのは、その光景がきれいだったからではないと思います。ほとんどの子供はそうだと思いますが、私も子供の頃なぜか風船が好きでした。それでたまに親に頼んで買ってもらったのですが、その時に必ず言われたのが「放しちゃだめよ」という言葉です。上を見ると、必ずどこかに誰かが放してしまった風船が飛んでいるので、子供心に「糸を放したらもう帰ってこない」と緊張しました。「今日は放していい」ということへの驚きとうれしさで、この出来事が忘れられなくなったのだと思います。

結局、私が飛ばした手紙の返事は届きませんでした。何人かには返事がきたので羨ましくて、私のはどこにいったんだろうと、どこかをフラフラ飛んでいる風船を想像しました。「天空の城ラピュタ」のエンディングで、大木が飛行石と一緒にどんどん空へ宇宙へ昇って行くところをみると、風船を放したことを思い出します。
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by mag-akino | 2012-01-23 10:13

マンガの描き方

はじめてマンガを描いた時に、「こんなものを読む奴は絶対におもしろいマンガを描けない」と意地を張って、「マンガの描き方」の本を読みませんでした。そんな訳で、第一作は基本サイズの27×18cmではなく、謎のサイズと比率になってしまいました。スクリーントーンがカッターで削れるということも随分長いこと知らなかったので、トーン貼りは「個人的マンガの手順の面倒臭いことランキング」第一位でした。(ちなみに第二位は、ペン入れをした後に下描きの鉛筆を消しゴムで消すこと、でした。)

マンガ専用の原稿用紙(印刷に反映されない薄い青で、断ち切り線と基本枠、上下左右にメモリが印刷されているという親切な紙)を買うことで、サイズ問題を受動的に解決し、トーンを使わないという奥の手で、トーン問題も切り抜けました。一応、解決しているのでもうどちらでもいいのですが、今思うとバカな意地を張る必要は全くなかったと思います。しかもコッソリ立ち読みをしたこともあるので、実際には意地すら張り切れていませんでした。

こんなことを言うと怒られそうですが、実は今でも「見開きページの描き方」を知りません。今はコッソリ立ち読みしなくても、ネットで検索したら一発ですが、これは知ったところでやらないので、調べていません。マンガを描く前から、マンガや絵本の見開きページの絵が、本の綴じで変になっているのが嫌いでした。たぶん、ダイナミックにみせるためや、広さ(広さの中の小さいさ、とか)を表現するために見開きにしているのだと思うのですが、私は真ん中の綴じにどうしても気をとられてしまいます。線の美しさなどが綴じで台無しになっている見開きをみると「一体なぜなんだ!」と思います。

ついでなので言ってしまうと、基本枠を超えて断ち切り一杯まで絵を描くのもあまり好きではありません。数カ所ならいいのですが、ほとんどのページ(しかも四方)が断ち切りのマンガをみると「一体なぜなんだ!!」と机を叩きたくなります。マンガは俳句のようにルールがあるもので、それを踏まえて工夫するのがおもしろいところです。ほとんどのページが断ち切りというのは、五七五の全てで字余りしているようなものではないでしょうか。

いろいろ好き勝手に言いましたが、一年に数回しかマンガを描かない者の趣味の問題です。きっと見開きや断ち切りには、私にはまだわからない意味や効果もあるのだと思います。マンガを描く度に「もしかしてインク腐ってる?」と臭いを嗅いでいるようでは、マンガのルールを踏まえて工夫をする以前の問題ですが、今のところ私はやらないつもりです。

「ラフの状態から原稿用紙に直接下描きする前に、もう一枚別の紙に割と厳密な下絵を描き、それをトレース台を使って、鉛筆でなるべくうすーく原稿に写し取り、そこにペン入れする」という面倒な方法で「ペン入れをした後に下描きの鉛筆を消しゴムで消す」という面倒を解決しました。うすーく描いているので、練りゴムで一瞬で消せます。
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by mag-akino | 2012-01-20 08:21

何も見えない

私は全くお酒を飲みません。たいして強くないお酒をグラスに2杯ほど飲んだら、帰り道で目が見えなくなったことがあり、それで飲むのをやめました。

目が見えなくなった、と言っても実際には数秒だったと思います。動悸がとまらなくて苦しいなぁと思いつつ電車に揺られていたら、プッツリ耳が聴こえなくなり、静かに動揺しているうちに目も見えなくなりました。耳が聴こえなくなって、目が見えなくなるまでの、ほんのちょっとの間に、視界がどんどん変化しました。まず、フルカラーの画像が、オレンジ系のモノトーンになり、白黒のモノトーンになり、解像度がどんどん荒くなり、ドットになり、黒、になりました。うわ!と思っていると、耳が戻って、フルカラーに戻ったところでドアが開いたので、とりあえず電車から降りました。

錦糸町の駅のホームで気を落ち着かせつつ、人間って機械みたいだなと思いました。真夏に自転車で坂道をのぼって貧血になった時は、紫系のモノトーンになり、そこまででした。モノトーンにもいろいろ種類がある、というのはなんとなく想像できますが、ドットになる、というのがなんだか不思議です。緊急事態で、最低限の状態をキープするために、なくても平気な機能をどんどん切っていったということだと思いますが、その過程が機械のようにシステマチックで、昔持っていたSONYのウォークマンを思い出しました。バッテリーが切れかけてくると、まず赤く点灯していた再生マークのボタンが点いたり消えたりしはじめ、消えて、制御不能になり、音が途切れ途切れになる、という順序で最後は全く聞こえなくなりました。なんだか動物みたいだなぁと思っていたのですが、同じような過程でも人間がたどると逆に機械みたいに感じます。

あの時、目を開けたままだったのに視界が黒一色になったので、「何も見えなくなった」と思いましたが、実際には「黒」が見えていたので、正確に言うと「何も見えなくなった」のとは違います。この、「何も見えない」というのがどういう状態なのかをイメージできません。「見えない」だけでなく、「わからない」とか「忘れた」という状態をイメージすると、私は頭の中が「黒」になります。もしかしたらこれには個人差があって、人によっては白とかグレーをイメージしているのでしょうか。そういう人がお酒を飲み過ぎたら、ドットの後は黒でなく、白やグレーになるのかもしれません。

バッテリーは充電できるので、ウォークマンの場合の「聞こえなくなった」というのが、「黒」と「何も見えなくなった」のどちらにあたるのかは、少し迷うところです。ただ、ウォークマンが息も絶え絶えに音楽をきかせてくれる様子はなんだか良いもので、ついつい完全に切れるまで聞き切っては、シーンとしたところで「しんみり」を味わっていました。この時、「眠った」のではく「死んじゃった」と感じていたので、「聞こえなくなった」というのは「何も見えなくなった」というのに近い、ということにしようと思います。
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by mag-akino | 2012-01-14 10:00

Dia:Beaconのミミズ

Dia:Beaconはマンハッタンから特急で一時間ちょっとのところにある美術館です。2004年にはじめてニューヨークに来た際に訪れて、「アメリカってすごいな(広いな)」と驚き、そのまま私のアメリカの第一印象になりました。日本からのお客さんには必ずお薦めする素敵なところです。

そのDia:Beaconは駅から少し坂道を登ったところにあるのですが、その坂道に異常なほどミミズがいます。一回目に訪れた時は雨が降った直後で余計に多かったのだと思いますが、二回目の曇りの日にもたくさんいたので、あそこには絶えずミミズがいるのだと思います。日本ではみたことがないピンク色の巨大なミミズで、そこでも「アメリカってすごいな」と思いました。

私は子供の頃から昆虫が好きで、葉の裏や草の間に何かいないか、いつも探しながら歩いていました。その習慣が体に染み付いて、今でも地面や草陰を凝視する癖が抜けません。ミミズにもすぐ気づき、Dia:Beaconを待たずして、かなり気分が高揚しました。ミミズは嫌いな方の虫(正確には昆虫じゃないけど)ですが、それでも「たくさん虫がいる」という状態に、虫好きとして興奮しました。

「Dia:Beaconに行って来たよ!」というのを聞く度に、「ミミズがたくさんいたでしょう」と言うのですが、今だに「いたいた!」という答えが返ってきたことがありません。アスファルトの上にあんなに目立つピンクのものが大量にいるのに、ほとんど気づかれていないようです。そういえば、同行した方もあまり気にしていないようだったし、前をあるいていた外国人女性も気づいていない様子でズンズン歩いていました。普段から、ゴキブリなどを見てギャーギャー騒ぐ人を見るのが嫌いなので、いち早く虫を発見した時、特に女性の場合は教えずに黙っていることにしています。そういう人ほど虫の気配に鈍感だったりして、ものすごく際どいところを触ったり、歩いたりするので、いつ気づいて叫びだすかとハラハラします。

いつまでたっても「いたいた!」と共感されないので、最近では「Dia:Beaconに行く」と聞いたら、ミミズを観るようにあらかじめ言うことにしました。虫嫌いでも一見の価値がある光景です。Dia:Beaconを目前に、緊張感を高めるのにも良いので、併せてお薦め致します。
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by mag-akino | 2012-01-11 23:51

A4くらいの角張った座敷童

誰でも一つや二つは「あれは一体なんだったのだろう」という体験があると思いますが、私にもいくつかあります。そのうちの愉快だったものについて。

アニメーションは制作過程で動画をたくさん描きます。「てんとう虫のおとむらい」という作品を作っている頃、編集前の動画を入れておくためのちょっとした箱が必要になり、母に空き箱がないかきいてみました。「納戸にあるかも」と言うので、2人で探してみたら、奥にA4よりひとまわり大きめの丁度よさそうなものがありました。取り出して振ってみたら「カタカタ」と何かが入っている音がして、あけてみたら空でした。

思わず母と顔を見合わせて沈黙してしまい、今でもたまに「あれは一体なんだったのだろう」と思い返します。絶対に何かが入っていた手応えがあり、柔らかいものではなくて、「プラスチックの定規かなにか」かな、と蓋をあける前の一瞬に思ったのを覚えています。「座敷童をみると、不思議と怖い気はせず、なぜか幸せな気持ちになる」と聞きますが、私もあの時のことを思い出すと、なぜか幸せな気持ちになるので「A4くらいの角張った座敷童が蓋をあけた瞬間に逃げた」と思うことにしました。

テレビで観る怪奇現象は、ものすごく怖かったり、やけに感動的だったりして大袈裟です。「…こんなことは私の人生では絶対おこらない(おこったらやだ)」と感じますが、「A4くらいの角張った座敷童」程度の不思議だったらそのうちまた遭遇するだろうと思っています。実際の怪奇現象(というか、「やや不思議なこと」)はもっと地味だったり無意味だったりするはずです。遭遇した時には「これは一体なんだろう」と考えるけど、「わかんないなぁ」と思っているうちに忘れてしまう程度の不思議だと思います。

こういう話をすると、「私には全くそんな体験はない」と言い張る人がいますが、たぶん忘れているだけです。以前、私が「やや不思議なこと」を話している時に、ふと見たら顔が真っ青になっている人がいました。たぶん全く忘れていた何かを、話を聞いているうちに思い出してしまったのだと思います。きかなかったけど、「やや」ではなく「だいぶ不思議」だったのかもしれません。
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by mag-akino | 2012-01-09 09:55

「気が合う外国人」と「気が合わない日本人」との会話からの考察

ニューヨークで暮らしてしばらくたちますが、まだまだ英語でもどかしい思いをしています。例えば「○○が好き」という気持ちを伝えようとした時に、日本語だと「あれっていいよね」とか「なんだか好きなんです」とか、「悪くないと思う」「たまらない」「とにかく素敵」とか、それをどういうふうに好きなのか、そのニュアンスを言葉の端々にこめて伝えられるのですが、英語だとそうはいきません。つまり、日本語と英語の表現の幅に差があるのでもどかしく感じるわけです。

もどかしい、で済めば良い方で、本当に困るのが「気が合わない外国人との会話」です。「あたりさわりの話のない話をする」というのは予想以上に繊細な言葉を駆使するものらしく、日本語でやっていたように「お茶を濁す」のは至難の業です。気まずく黙りこむことが何度もありました。

2年ほど前に、「韓国で生まれ、日本の小学校に通い、中学あたりから英語圏で過ごす」という経歴で三ヶ国語が話せる人と知り合いました。日本語で会話してみると確かにうまいのですが、日本人なら「この人、日本語が母国語じゃないな」と感じる日本語です。自分でも日本語が完璧でないことはわかっていると言うので、思っていることの何%を日本語で表現できるのかきいてみたら「70%」とのことでした。そして、三つのうち一番得意なのは日本語だとも言っていました。

英語でもどかしい思いをする度に、「日本語だったら100%表現できるのに」と思っていたので、その人が「常に言葉にできない30%を抱えて生きている」と知ってなんだか怖くなりました。同時に、その言葉をきいて「私の日本語は何%だろう」と考えるようになりました。そういえば、「デジャブの後の寂しいような、何かを思い出しそうな、なんともいえないあの感じ」を表現する「胸がきやきやする」という言葉を知った時、あの気持ちを表現する言葉を知らなかったことに初めて気がつきました。こういうふうに、気がついていないだけで、まだ何語にもなっていない抽象的なものが意外とたくさんあるのかもしれません。言葉になっている部分となっていない部分の割合がどのくらいなのか想像しても、わからない部分を計るのは難しくてなかなかうまくいきません。

先に、「気が合わない外国人」との会話は難しいと書きましたが、「気が合う外国人」との会話は簡単です。50%しか言葉にできなくても、「かなり伝わっている」という手応えがあり、むしろ「気が合わない日本人」よりよほど「通じる」と感じます。これを「言葉になっていない部分が言葉以外の方法で伝わっているからである」と仮定すると、「言葉になっていない部分の割合は全体の33.3333…%以上である」ということになります。たぶん。
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by mag-akino | 2012-01-05 10:10

性格が自乗で増えていく

両親をみていると、「私と似てる」と感じます。(実際には私が両親に似ているんだけど。)容貌のことではなくて性格が、父をみても、母をみても「…これはたしかに血が繋がっている」と感じます。

長所が遺伝しているのは良いことですが、短所もそっくり遺伝しているように思うので、そうなると単純に考えて、私1人で2人分の短所を併せ持っていることになります。いや、1人の中にそんなに短所は入り切らない、それでは私の性格は父母それぞれの2倍あることになってしまう、そんなはずない、けど、たしかに欠点は2倍くらいありそうな…と、そこまで考えて、いや、そもそも「性格に容量はあるのか?」と、「性格の容量」が気になってきました。

父方の祖父母をみるとどちらも父とよく似ているように思うし、母方の祖父母も母に似ていると感じます。ということは父母がそれぞれ2倍ずつ、つまり私は祖父母の4倍の性格がある、ということになります。以前手相占いで、あまりにのっぺりとした私の手相(鉛筆で線を4本ひいただけにみえる)をみて「単純で深みがない性格」とみた印象のままの診断をされたことがありますが、その私の4分の1の性格しかない祖父母って一体?と頭がクラクラしてきます。このクラクラ感は、「宇宙はどこまであるんだろう?」とか「9次元ってどういうこと?」と考えた時の感じと似ています。真面目に考えているうちに、いつの間にか眠ってた、というやつです。

寝ていても仕方ないので私が仮に出した答えは、「性格の容量は無制限だけど、ほとんどの部分は忘れていて、一人一人は同じくらいの性格の量で過ごしている」というものです。つまり、「私は実際に祖父母の4倍の性格を持っているけど、1人分以外の性格を忘れている」、「先祖代々性格が倍の倍の倍にどんどん自乗で増えていくけど、そのうちの1人分しか覚えていない」ということです。そう考えるととてつもない忘却の歴史です。そして、これは「記憶の容量」でも同じことではないかと思います。

仮の答えを出すと、それがそのまま結論になりがちなので要注意です。と、いうかこんなことを考えるより先に、両親の2倍あると思われる欠点を直す方法でも考えた方がいい気もします。今年こそがんばります。
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by mag-akino | 2012-01-02 03:54


アーティスト近藤聡乃ニューヨーク滞在制作記


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近藤聡乃 / KONDOH Akino

2012年5月までの文章が本になりました。

不思議というには地味な話』(ナナロク社)

57編、すべてに描き下ろし挿画つき。26ぺージの描き下ろし漫画「もともこもみもふたも」も収録。



2000年マンガ「小林加代子」で第2回アックス新人賞奨励賞(青林工藝舎)を受賞し、2002年アニメーション「電車かもしれない」で知久寿焼(音楽グループ、元たま)の曲に合わせてリズミカルに踊る少女の作品で NHKデジタルスタジアム、アニメーション部門年間グランプリを獲得。シャープペンを使って繊細なタッチで描くドローイングに加え、最近 では油彩にも着手している。2008年、2冊目のマンガ単行本「いつものはなし」(青林 工藝舎)を出版。

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